何でも有りの世界

こんなニュースを発見。

■独アディダス、米ナイキとアシックスによる買収観測浮上
スポーツ用品世界最大手の米ナイキと日本最大手のアシックスが、世界2位の独アディダスの買収に共同で乗り出したとの観測が3日、市場関係者の間で浮上した。米欧メディアが相次いで報じ、アディダス株は同日、一時急騰した。

ロイターやブルームバーグによると、ナイキとアシックスがアディダス株のTOB(株式公開買い付け)に乗り出すとの観測が広がっているという。アディダスの株式時価総額は約140億ドルで、買収が実現すれば同業界のM&A(合併・買収)としては最大規模となる。アディダスとナイキはコメントを出していない。
(日経ネットより抜粋)

先日アンブロを買収したナイキが今度はアディダスを標的にしているとかしてないとか。まだ本当かどうかわからないけれど、「アディダス、ナイキからの買収を避けるため、プーマと合併へ」なんてことになったら、ちょっと面白い。

しかし、もし本当にナイキがアディダスを買収したとしたら、スポーツメーカー業界は随分とアンバランスになるような気がする。アシックスのポジションもいまいちよくわからないので、詳しい人解説求む。(丸投げ)

気がつくと4日空き

バタバタと更新をしないまま、4日過ぎてしまった。とりあえずこれ以上間を空けないためにも書いておこう。

最初は小さな一歩でも、一歩踏み出すか踏み出さないかの間には天と地ほどの差がある。振り返ってみて、やっておいてよかったなと感じることがあるのは結構幸せなことだと思う。とにかく、まずはめんどくさがらずにやってみること。判断はその後でも決して遅くは無い。やる前に勝手な判断を下すのは、自らの可能性を狭めているにすぎない。

手段と目的の倒錯関係

いわゆる「本末転倒」と言われる状況に陥る時というのは、目先のことに囚われてしまっている可能性が高い。「何のために」ということを常に問い直していかないと、人間は目の前にある小さな満足を求めてしまいがちだ。例えば英語を勉強する場合、あくまで言葉は意思疎通の手段なのでいかにそれを使えるようになるかが重要になってくるわけだが、勉強を進めるうちにTOEICだとかTOEFLだとかの点数を取ることに執着し、高得点を取って満足してしまう、というのは往々にして有り得る。勉強を進めるうちにいつしか本来の目的は薄れ、「高得点を取る」という小さな満足を追い求めた結果、手段と目的が倒錯してしまったケースと言えるだろう。

前回、ものづくりが主である会社における自分の置かれている状況についてやや悲観的なことを書いた。振り返ってみると、自分も上に書いたような過ちを犯していたのかもしれないということに気づく。自分の言う「価値を創造すること」とはつまり、「もの」を自らの手で作ったり新たな「技術」を生み出したりといったことを指していたのだが、そもそも「もの」や「技術」は何かを実現する手段でしかない。それらは単体で価値を持つのではなくて、何かの目的を達成するために使われ、使った人が満足を感じた時、初めて価値が生まれる。価値は「もの」や「技術」に付随しているわけでは決してない。

特に、新しい「もの」や「技術」は何かそれだけで価値を持っているかのような錯覚を抱かせる傾向が強いが、それらが使う人にとってどんな価値を提供できるのかが一番重要なことであって、ただ生み出しただけでは自己満足に近いと言える。新たな「もの」なり「技術」なりを創り出す時は、目の前に乗り越えなければならない課題が連続してやってくるから、どうしても克服し完成させることが目的となってしまう。しかし、極論を言えばそれは手段が目的化しているにすぎない。そして、不幸なことにこうして生み出された「もの」や「技術」は使う側からすると価値を見出しにくいものになってしまうという結果を引き起こすことが多い。

こうして考えてみると、自らの置かれている立場の役割というのが自ずとはっきりしてきたような気がする。ものづくり主体の会社である以上、どうしても作る側の視点で物事を捉えてしまうケースが多い。であるがゆえに、直接作る側にはなれない今のポジションにおいては、徹底的に使う側の視点で考え行動し、手段の目的化を防ぐこと。それが結果的に「使う側=顧客」の満足につながり、ひいては会社の利益につながっていくのではないか。世のビジネス書などでは「顧客志向」だとか「マーケット・イン」だとかいう言葉によってあらわされているこうした仕組みが、ここ数日の業務を通じて身を持って実感することができたのは非常に幸運だった。

いわゆる付加価値

今の会社はいわゆる「ものづくり」がメインの会社であるために、営業の立場にいる自分が提供できる価値は何か、については自問自答することが多い。業務内容もいわゆる「売込み」営業ではなくて、どちらかというと「御用聞き」的な側面がメインとなるから、それこそ意識しておかないと「右から左へ受け流す」ことをしてしまいがちだ。

もどかしいのは、自らの手で目に見える価値を生み出すことは不可能であること。つまり、営業という立場の人間は「1を10、10を100」にすることはできても、「0を1」にすることは絶対にできないわけだ。あくまで工場が創り出した価値に「+α」するのが営業の仕事であって、無から有を生み出すといったような創造的作業は稀であると言える。

もちろん、顧客との関係構築やスムーズな案件遂行、利益確保に向けた受注活動など、営業に与えられた業務においても創造性は高く求められる。むしろ、技術革新がかつてないスピードで起きるが故に生み出された技術がすぐに陳腐化してしまう今日においては、「+α」の部分でどれだけ付加価値を付与できるかが「ものづくり」を主体とする会社の命運を左右するとも言える。しかし、一方で限界を感じてしまうのも確かだ。結局それは「付加された価値」でしかない。

日々の業務の中で自らの手ではどうしようもない、解決できない技術的問題に直面するたびに、営業という立場にいる自分が介在する意味を否応無く考えさせられる。そんな時、どんな形でもいい、ものづくりにこだわるつもりも全くない、いつか自らの手で「0を1」にしたという実感が持てる何かを成し遂げたいとぼんやりと思うのだった。

予定も台風に飛ばされ

元々今日はとある事情で一日潰れる予定だったのだが、台風のおかげで中止となり、急遽予定が全く無いポッカリと空いた一日となった。髪を切りに行ったり昼寝をしたり本を読んだりと気ままに過ごしているうちにゆったりと時間は過ぎていった。

余裕が生まれると色々な事に思いを巡らせてしまう。これまでのこと、これからのこと。先のことは考えれば考えるほどぼんやりとしていて、今の自分の不確かさに不安を抱く。このままでいいのかと。焦りに似たこの感情が、しかし、今の自分を突き動かしているのは否定できなくて、がむしゃらに何かを掴もうともがき続ける日々がたぶんずっと続く。

昼間は雨と風とで荒れていた外も、今はもう普段の夜の静けさを取り戻している。台風はもう通り過ぎたようだ。でも昼間のうちに体から放出された僕のもやもやした気持ちは、今も部屋の中にたくさん詰まっている。

まなざしはどこから

電車の中吊り広告に書かれた「失わせた世代」という言葉に目を引かれた。気づかされた、と言った方が正しいかもしれない。目にした瞬間、示唆深い言葉だと思った。

日本において、バブル崩壊以降の1990年代は「失われた10年」と呼ばれている。日本が過去の清算と不況への対応に追われているうちに、世界は新たなステージへと進み、日本がその流れに乗り遅れた、という言説を内包する言葉。問題は一体その主体は何なのか。「失われた」というのはつまり、「あるべきものが無くなった」といった意味を持っているわけだが、あくまで受動的な言葉にすぎない。「失わせた」のは誰なのか。

「失われた」と言われると、責任の所在が全く見えなくなる。何らかの不可抗力によって引き起こされた避けることのできない事柄であって、起きたのは仕方の無いことだったのだ、といったような思考停止を招く気がしてならない。この表現からは、何故そういった事態へとなったのかという原因の追求、及びそれを踏まえてのアクションを模索し実践しようとする姿勢は生まれてこないように思う。「失われた」まま、責任も原因も曖昧に時間だけが経過していくイメージ。

普段何気無く使う言葉に隠された言説に気づくにつれ、逆説的に「失われた10年」という言葉が生まれた当時は社会のムードとして受け身の姿勢が前面に出てしまっていたということを思い知らされる。そして、今もその言葉が当たり前のように使われているという現実にどこか違和感を感じてしまうのだった。当事者意識を持たない限り新たな価値の創造は不可能であると個人的には思っているので、少なくとも自分の周囲においてはこのムードを払拭していきたい。