解の無い問題

解決すべき事柄を「問題」と定義するならば、大きく二通りあると思う。自分は便宜的に学校的問題と社会的問題と呼んでいるのだが、前者は明確な解答−例えば「1+1=2」など−があるのに対し、後者には絶対的な解答が存在しない。何らか解答として提示したとしても、それが正解であるかどうかは誰も断言することができないし、そもそも何が正解なのかもはっきりわからないのが社会的問題であると言える。

恐らく、世の中には圧倒的に社会的問題の方が多い。むしろ、自分の身を少し振り返ってみれば、明確な解答が見出せる問題などはほとんど無いことに気づく。学校的問題は、絶対的な解答に至るまでの道のりを知るという学習のプロセスを経るのに対し、社会的問題は、あらゆる可能性を考慮し様々な選択肢を挙げて、最終的にある価値観なり根拠なりに基づいて選択肢の一つを選ぶ、という意思決定のプロセスを経る必要がある。

難しいのは、一つの選択肢を選ぶということは他の選択肢を捨てることを意味するので、後になって振り返ってみた時に「ああすればもっとよかったのかな」と思うことになるかもしれないが、一方で他の選択肢の方が良い結果になったかどうかは確かではないという点。結果を見てああでもないこうでもないと言うことは非常に容易くて、往々にして批判的な態度を取ってしまいがちなのだが、当時の意思決定が間違っているかどうかはその時点では誰もはっきりとは言えない。となると、いかに多くの選択肢を一度は挙げてみて検討するかということが重要になってくるような気がする。

つまり、想定している選択肢に対しては、ある特定の立場や価値観に偏ったものでないかを検討する、といった相対化する作業が必要となってくるのだろう。最終的な意思決定の段階においては、自らの価値観というある種「絶対的な」ものに基づいて決断することになるので、この過程は意識して行う必要がある。ただし、明確な解答が無い問題である以上、決断に時間をかけすぎても仕方無いというところがあって、そのバランスの取り方にセンスが問われるし、もし選んだ選択肢が思わぬ方向へと事態を進めてしまった場合には、修正する決断を下す勇気も必要となってくるわけだ。

当たり前のこと

何か物事につまっている時というのは、知らず知らずのうちに視野が限定されてしまっていて、打開策を見い出せなくなってしまう。そんな時は周りの人の話を聞いてみること。答えは身近なところにあったりするから。他人の目を借りることで新たな地平が開けてくる。

決して自分の力だけで解決しようとしないこと。世界は決してモノクロではない。

信頼と緊張と

一般的に、それぞれの立場によって生じる利害が異なるというのが組織というものだと思うが、信頼感と緊張感のバランスはどちらにも一方的に振れすぎては望ましい姿とは言えないのかもしれない。信頼感が強すぎると一歩間違えれば「なあなあ」な関係になってしまうし、緊張感が強すぎるといつまでたっても物事がスムーズに進まなくなってしまう。

もちろん、組織の置かれている立場によってこれらのバランスの配分は変わってくる。ある組織間では5対5が最も望ましいこともあるだろうし、7対3くらいの方がかえって円滑な関係を築けることもあるだろう。しかし、組織の関係とはいえ人間同士の関わり合いの積み重ねである以上、そのバランスは常に崩壊へと向かうベクトルを持っているとも言える。

例えば、ある行為を規則で禁止した場合、規則を定めた側と監視される側との間には緊張関係が生まれる。おそらく始めのうちはお互いにお互いを意識し合うから緊張関係は継続されるだろう。規則を破って罰を与えられる人間が出てくることで、それが強められることも考えられる。しかし、時間が経ち禁止行為が見られなくなっていくにつれて、監視する側の関心は薄れていく。そしていつしか「みんなやらないだろう」といった考えが生まれ、規則が有名無実化していく。

得てしてこういう状況に陥った時、禁止していた行為を犯す人間が出てくるわけだ。そして再び訪れる緊張関係。結局、人間は常に自らの立場でしか物を考えず、自分の利害を一番に優先して行動する存在らしい。歴史を振り返ってみても、本質は似たりよったりで、長い間飽きもせずに同じ事を繰り返してきたと言えるし、たぶんこれからも繰り返し続けることになるのだろう。

上手くコントロールすること

「月曜日」という言葉から重苦しさみたいなものを感じてしまうのは、まだ自分が未熟だからなのだろうか。個人的には、いつまでたっても好きになれそうな気はしないのだが。

現実として月曜日のテンションは低くなってしまう傾向があって、いつも立ち上がりに苦労する。終日何となく気持ちが乗らないうちにダラダラと時間が過ぎていってしまうことも多い。終わりに近づいてくるとだんだん切替ができてくるわけだが、一転自分の弱さと時間を上手く活用できなかったことに後悔し始めてしまうからたちが悪い。

目の前にある仕事と将来の目標に向けてやる気に満ち溢れている時もあれば、仕事なんかやらずにのんびり過ごしたいなあと思う時もある。誰だって感情の起伏はあるし、いつも同じテンションで生きることは不可能に近い。そうした起伏が発生することを認識した上で、いかに自らをコントロールできるかが大事になってくるのだろう。

当面自分の課題は、日曜日と月曜日の切替をいかに迅速かつ円滑に実行するかということ。特にサッカーがあった日曜日後。月曜日の過ごし方がその一週間の質を決める、と言っても過言ではないと一方では実感しているので、方法を模索しながら実践に努めよう。

捉え方一つ

最近「おもしろき ことなき世に おもしろく」という言葉の奥深さを改めて感じている。自分次第で目の前にある世界はいかようにもその姿を変える。

何事も捉え方一つで良い方にも悪い方にも取ることができる。一見退屈なことでも少し考え方を変えることで、意外なおもしろさを発見することだってある。例えば、アマチュア無線の試験を受けなければならなくなったとして、全く興味の無いことの勉強を強いられると捉えるか、これまで自分が触れることのなかった世界を知ることができる機会と捉えるかによって、勉強のやり方や効率も大きく異なってくるだろう。これはやや極端な例かもしれないが、いずれにせよ、受け身の姿勢では隠されたチャンスを見出すことはできないし、今の自分が満足する範囲でしか物事を捉えられなくなってしまうように思う。

物に溢れた豊かな社会で生活していると、気づかないうちに受け身でいることに慣れてしまう。待っているだけで楽しいことやおもしろいこと、美味しいものやきれいなものがやってきてくれるからだ。それは決して不幸なことではないだろう。ある面では「恵まれている」と言えるかもしれない。しかし、こうした状況に慣れきってしまうと、何でもかんでも待っていればやってきてくれるように思えてしまって、自ら動くということを忘れてしまう恐れがある。自ら動く姿勢を忘れるということは、その人の秘めた潜在的可能性がゼロに近づいていくことを意味する。

僕はそれが「もったいない」と考えてしまうわけだ。ある物事に対して、つまらないだとか退屈だとかいう言葉からは何の価値も生まれない。であるならば、おもしろくしてみようと考え動いてみること。自ら考え動き、新たな価値を見出すことができたとき、ただ漫然と生きているだけでは感じることのできない高揚感を得ることができる。それが結局、次のステップへと進もうとする意志を生み出してくれるきっかけとなり、新たなモチベーションが生まれる。極論を言えば、最初からおもしろい世の中なんてない。自分が世の中をおもしろくするのだ。

トレードオフからの脱却

仕事が忙しくなると、考えや視野が狭くなる。一方で、余裕が出てくると、あれやこれやと考える。

忙しい中でも大局的な視野を保つには自分のキャパシティを大きくするしかなくて、大きくするためには結局目の前にあることをこなしながら経験を得るしかない。

弛緩する雰囲気と山積する仕事

連休明けのオフィスは雰囲気がやや緩んでいるような気がする。もしかしたら自分の中でどこかで切り替えられていない部分があるから、そう思えるのかもしれない。

目の間にある仕事を一つ一つ片付けていくこと。当たり前のことを当たり前にやってはじめて、長期的な物事を考えることが可能になる。今やるべきことをやらずに遠いところばかり見るのはただの現実逃避でしかない。

結局何事も地道に続けることが一番の近道になるのだと思う。