アテネは本当に経由するだけでよかったのか?

オリンピック男子サッカーは昨日の敗戦によって予選リーグ敗退が決定してしまいました。想像よりだいぶ早くに終わりがきてしまったことが残念でなりません。これでオリンピックの楽しみが半減した、といっても過言じゃない・・・


それにしても2戦続けて不本意な試合内容でした。立ち上がりにあれだけ失点したらゲームプランも何もないですよね。あそこから試合中に立ちなおすほどの精神的なタフさをこのチームは持ち合わせていませんでした。がんばったことはもちろん認めます。よく3点取ったな、とも思います。それでも4点とられてしまっては意味がありません。


気になったのは、初戦を終わった時点でも思っていたことなのですが、みんながみんな「良い経験になる」といった発言をしていたことでした。それはイタリア戦後の山本監督も口にしていた言葉です。僕が「?」と思ったのは、あまりに簡単に、何のためらいもなく、試合後すぐにこの「良い経験」という言葉を使ったところにあります。


そもそも経験とはなんでしょうか?ある出来事や物事を通じて、何かを得たり感じたり学んだりすることですよね。だからオリンピックの試合、そして敗戦を通じて経験を得ることに関しては別に否定するわけじゃない。


問題は、得た経験が「良い経験」だったかどうかはある程度の時間を置いて振り返ったときはじめて判断されるべきことであって、直後から「良い経験だった」というのははっきり言って軽率だし、また「良い経験にすべきである」「良い経験にしなければならない」として自ら恣意的に方向付けしてしまう恐れがあるわけです。


本来ならばある経験が(その人にとって)「良い経験」であるかはどうかは因果関係にあるものです。例えば、「2006年のワールドカップに今私がこうして出場できるのは(=結果)のはあのアテネの経験があった(=原因)からだ」といった文脈ではじめて「良い経験」として認めることができるのです。しかし、今大会の選手達のように、あまりに早い段階から「良い経験」として捉えてしまったのだったらそれは目的・手段関係になってしまい、つまり「この経験を生かさないと(=手段)2006年のワールドカップには出場できない(=目的)」といった不必要な義務感めいたものが芽生えてしまい、それがプレッシャーになることもあるわけです。


無論、それがあたりまえだろう、プロならば失敗を糧にして上を目指すのは当然のことだ、といった主張もあるでしょう。僕はそれを否定するつもりはありません。しかし、あまりに早くから失敗を「良い経験」として捉えてしまうと、それはすぐに過去のこととして忘れてしまい、結局また同じ失敗を繰り返してしまうことがあるから、しばらくの間は自分のなかにとどめ何度も反芻し様々なことを感じることが実は必要なことなのではないかと思っているために、あえて苦言を呈してみたのでした。


結局僕はこのオリンピック代表チームが好きで好きでしょうがないのです。最後のガーナ戦、なんとかして意地を見せてもらいたいな。