「何のため?」と聞かれるとうまく言えないけれど。

変調を来たした体を休め、再び普段通りの生活を送れるよう治療に専念することに決めたのはおよそ3ヵ月前の4月中旬。本格的な復帰を前に今僕はこの期間についてを何らかの形で残したいと思うようになった。より言えば、今この時に何かを書かなければ後々絶対に後悔するだろうという根拠の無い予感めいたものが僕の中に確かにあるのである。

この期間、幸か不幸か僕の目の前には使っても使いきれない程の時間だけがあった。ただしそれは自由な活動を営む行動力を失ったかわりに得たものであって、実際にできることは相当に限られていて、そのほとんどはいつ回復するかわからない体の調子に一喜一憂することに費やされることになる。とはいっても、自由のきかない体のこと、そして引き起こされた進路変更という現実、及び再検討を迫られることとなった将来のことなどを四六時中嘆き続けるほど悲観的な性質を持っておらず人並み以上に楽観主義であった僕は、少なくない時間を「考える」ことにも費やしたのであった。逆に言えば唯一残された自由な活動である「考える」ことを通してのみ、僕は前向きに生きようとする意思を保つことができたのだと思う。そんなわけで7月25日を復帰の日と決めた今日7月18日からの1週間、この約3ヵ月の間に僕の中を去来した様々な考え、思いの断片をたどりながら書き続けていこうと思っている。

ただ誤解してほしくないのは、考えたことを羅列し、誇らしげに示し、備忘録的な記録として書き残そうといった動機は全くなく、むしろ3ヵ月の間僕は考えたと言っているけれど、そもそもそんなものは確かな形で他人に証明することはできないだろうし、目に見える形で僕が得たものなど何一つ無いのではないか、という懐疑から全ては始まっているということである。今日、何事にも有用な効果や明白な意味を求める態度が一般に疑いなく受け入れられている世の中の文脈からしてみれば、確かに体の治療という側面は大変に有意義だったかもしれないが、一方で表面的にはただただ単純な活動を繰り返し、世の中の動きとは全く無関係な生活を続けたという面を考えてみると、「無駄な」日々を送ったと断じられたとしても僕は積極的にそれを否定することができない、ということに気付いたのであった。

「考えてきた」と自負する一方で、何も得ていない、残っていないのなら「無駄」と言われても仕方ないとする思いの境界に置かれている僕はしかし、とにかく「何か」を書かなければ「何も」残らないのは確かであるとも強く思っている。なるほど3ヵ月前の僕と今の僕との間では明確な差異を指摘することはできないかもしれない。恐らく何も変わっていないのが現実だろうと思う。しかしどこかで何か違ったものが芽生えつつあるのではないかとの思いを捨てきることもできず、だから少なくとも「今の」僕が何を思いどう生きていこうとしているのかをこの3ヵ月のことを振り返り思考の断片を拾い集めながら明らかにしていこう、そして書き終えた時そこには3ヵ月の累積としての僕と今の僕との間で何かが残るかもしれず、もしそれを認めることができたならば僕は笑顔で復帰することができるのではないかと思っているのである。

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突然の自己満足モードですみません。今日から来週土曜日までの7日間は誰にどう言われようと上のような感じでいきます。このブログに載せるかどうか迷ったんですが、結局公開することに決めました。よろしく。自分の中でのしばりは、あんまりに長すぎるとさすがに鬱陶しいんで、1日だいたい原稿用紙3枚程度にまとめよう、ってことだけ。かなり勢いで書いているんで論旨が破綻している可能性は高いですけど、とにかく「あとは野となれ山となれ」の精神でやっていきます。