「時間」について、いくつかの視点

療養生活を始めた当初、まず直面したのがただ「生きる」だけにもかなりのエネルギーが必要であるということで、食べることや寝ることにさえも困難さを覚えるほど弱っていた僕にとってその事実は否応なく目の前に突きつけられたのであった。そんな単純な生活を送るだけでもある種のつらさを感じる状態に置かれた僕が、生きることを辞めようとかいった悲観的すぎることまでは思わなかったけれど、時間がもっとはやく経過してほしい、体がはやく回復して欲しいと思うようになったのは、つらいことは早く過ぎ去って欲しいと誰もが思うように自然とも言える反応だったと思う。しかし一方で、そうしているうちに「時間」というものの捉えかたが次第に多様化していったのは、僕自身にとっても驚くべきことだった。

今の社会においては誰もが過去、現在、未来という概念を持っていると思う。つまり時間を、過去から現在へと至り未来へと続いていくものであるという直線的な感覚でとらえているということである。これは例えば歴史を語る時によく用いられる「年表」に顕著にあらわれており、一本の軸の上に出来事を配置していくというやり方にはこうした時間感覚が採用されていて、同時に時間を「過去→現在(→未来)」と一方向に限定することでその不可逆性も暗黙の内に当たり前のこととして認識しているのである。決して僕は上のような時間観を否定するつもりで挙げたのではない。実際今の僕は「過去」を振り返りつつこれを書いているし、恐らくこれからもこの時間観が大きく変わることはないだろう。ただ療養中、先の見えない体の調子を前にして僕の中で時間が進むものであるという認識がだんだんと薄れていき、こうした直線的な時間感覚を僕は一時期放棄した。

なぜ放棄したのかと言えば、直線的に捉える(A→Bへと移動する)にはある種の変化(それは些細なもので良いのだが、確かなもの)が必要であると思われるのに、僕が置かれている状況はあまりに単調なことの繰り返しであるため変化などというものは見出せるはずもなく、いつまでたっても同じところにいるような感覚になってきたからである。これまでは去年があって先月があって先週があって昨日があって今日があって明日があって・・・(図示すれば、A→B→C→D→・・・)とためらい無く思っていたのが、毎日があまりにも単調で同じ事の繰り返しであったために一日の中でしか時間の経過を捉えられなくなっていったのだ。つまり、一日の中では「はじまり」と「おわり」はあるし朝、昼、晩といった感覚はあるけれど、今日の「おわり」がくるとまた同じ今日の「はじまり」に戻ってくる、といった感覚(図示すれば、A⇔B)である。この時間感覚はある程度回復の兆しが見えるまで続き、いつまでたっても抜け出せそうな気がしない最も苦しい期間であったと今にして思う。

といっていつまでたっても同じところを行ったり来たりしているほど人間という存在は単純に作られていないらしく、苦しみながらも次第に目に見える形で回復しているのがわかるようになり、以前の僕と今の僕とは明らかに違うということが実感できるようになってくる。ただ僕という存在は確かに少しずつ変わっているかもしれないが、一方で毎日の生活は相変わらず同じことの繰り返しだったので全てが同じく進む直線的な時間感覚に戻るには若干のためらいがあり、その結果新たな感覚を生み出すことになった。それはA⇔Bと同じように2つの地点を行きつ戻りつしながらも、その中では確実に変化が起こっていて「はじまり」と「おわり」が少しずつずれていく、という感覚である。つまり、A→B⇒A´→B´⇒A´´→B´´(本当はこの3つは縦に並べてらせん状に上にあがっていく)といった捉え方だ。こう考えれば単純な生活を送りながらも自分は必ず回復に向かっているとの意識を持つことができて随分と前向きになれたのだった。

どれも説明不足の感が否めないけれど、字数がオーバーしてしまったので終わりに。要は、一見いじることは全くできないような「時間」でさえ、自分の状況によって都合の良いように解釈しなおすことができる、という話。そもそも「時間」という概念を作り出したのは人間である以上、決して堅固なものじゃないというわけ。