ある種の声明文

真っ最中だった就職活動はもちろん、学校に行くこともやめて治療に専念することを選んだ僕は、はじめの頃こそ将来のことを考える余裕など全く無かったけれど、次第に回復の兆しが見えるようになってくると自然白紙にもどった今後のことをあれこれ考えることが多くなってきた。焦りが無かったと言えば嘘になる。といって焦ったところで何も変わらないのもまた事実である。僕の中ではいつしか見通しのきかない先のことに対する漠とした不安は消えていき、幸か不幸か進路を再検討できるようになったことを素直に受け止めむしろ新たなチャンスが到来したとの思いを抱けるようになっていった。

この春に就職活動をしていた僕であったが、こう見えて学問の道を進むか社会人として働く道を選ぶかで悩んだことがある。当時僕が学び続けようと思っていたのは社会学(といってもカバーする範囲は相当広いが)で確かに奥が深いし魅力的な学問なのだが、正直それを学び続けたところでどうなる、との思いを抱いていた。と、学問は「何々のために」、つまりある種の手段として以上にそれ自体を目的として学ばなければならないと思っていたはずの自分が、このような不安を抱いていることに気付いた時、僕の中には学び続けることに対する正当な動機が無いという結論に至ったのだった。

就職活動を中断して全てがふりだしに戻ってもこの決断には変わりなかったからそんなわけで進路の再検討といってもやることは限られてくる。でもどの業界に入りたいとか、どういった仕事をしたいとかいった程度のこと(もちろんこれも重要であるが)を改めて考えるくらいでは持て余すくらい時間があったので、どう生きていくかといったレベルまで落としていってそこから遡及的に考えていこうとして、それで出会ったのが「スロー」という概念だった。

以前にもここで「スロー」に関しては少し触れたし、長くなってしまうから詳しい説明はしない。とにかく、以前から資本主義全盛(特にポスト産業資本主義に見られる、「差異」が最も重要視される傾向)の世の中に対して少なくない疑問を抱いていて、でもだからといってその疑問をどう実践の中で生かせばよいかわからなかった僕にとって非常に示唆的だったことは確かである。さらに、体が不自由になって初めて「正常な」人々にとって「快適な」もの、「便利な」ものが必ずしも全ての人にとってそうではなく、暗黙の内にそれらが排除する人々を生み出す仕組みを持っていることに気付かされたこともあって、全ての人に生きやすい世の中とは何かについて考えはじめるきっかけにもなってくれたのだった。

ただ「全ての人に生きやすい世の中」とは言ったものの、これを全面に押し出して声高に主張するほど僕は理想主義者ではない。あらゆるものを否応無く巻き込む力を今の世の趨勢は持っていて、その方向性を転換させるには途方も無い努力と根気が必要であり、多くの場合その試みは無駄に終わって日の目を見ることはないと理解している現実主義者の面も強い。それでも僕は「スロー」という概念を通して今の状態よりかは少しでも生きやすい世の中が作れるかもしれないという可能性を感じてもいて、だからまだ何も現実的な実践方法は思いついていないし具体的なビジョンがあるわけでもないけれど、この文章をもって僕は今後何らかの形で「スローな」世の中を作り出すことに携わっていくという意思のささやかな宣言にしたいと思う。